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「ファミチキが素晴らしい」ならば「1=2」

https://ja.uncyclopedia.info/wiki/1%253D2

上のサイトにあるように「1=2」は50をも超える方法で説明されている.ここに、一つ「ファミチキ」を用いた証明を付け加えたいと思う.

 

[補1]
「A∧(¬A)」は恒真命題より,
「(x=2)∧(¬(x=2))」は恒真.
よって、¬(x=2)⇒「∀x.x≠2」.

[補2]
[補1]より、¬qはq以外の全事態を指すので、をβ:「p⇒¬q」はα:「p⇒q」以外の全実態を指す。真偽が存在する命題について α⇔¬β

[本論]
ここに,
おぼろげなり
おぼろげならず
という言葉があり、たしかにどちらも素晴らしいという意味を持つ.

ここで,「朧げなり」をxとすると,「朧げならず」は¬xと書ける.

φ:「ファミチキは素晴らしい」
という命題が真とする.「ファミチキ」をPとして,

φ⇔「P⇒x」⇔「P⇒¬x」
P⇒xが真であれば、P⇒¬xは真.
[補2]より、P⇒¬xは¬φ.

よって、φと¬φどちらも真であるので、
爆発律より、「1=2」は示される.

よって,
ファミチキが素晴らしければ、1=2」

もちろん、ファミチキは素晴らしいので、1=2の正しさが示された。

下級生指導方針

下級生に対しての高3の意味はみんなが語り尽くしたと思うので、高3にとっての運動会の意味を語りたいと思います。

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最近、校長先生と話す機会を頂き、その中で校長が運動会について話されているのを聞いた。その中で校長が特に強調されていたのは、「運動会は教育装置である」という一点であった。私はこの言明に強く賛同したい。運動会がただの思い出づくりであって、教育的意義を見出すべきものではないとするならば、高校三年生のこんな時期にこんな労力をかけてやるべきではない。今すぐやめるべきだ。

運動会が教育装置であるとして、私たちがここでしか学べないことはなにか。一言で言えば、「社会勉強と社会でできないことの勉強」だろう。多くの場合学生が自分の行動に自分で責任を取って何かを為す、ということは少ない。例を出せば、僕らの戦うフィールドである勉強。多少知性は関わってくるものの、結局は規定のフレームワークの中で戦わざるを得ない。テストで点の取れない人間は結局カスで、評価に値するとはいえない。しかし、このような方法は一定の質の人間を大量に生産するものに他ならない。人間が社会の歯車を為す近代社会において、同質の歯車を沢山用意することは欠かせないことだ。しかし、我々はそれによってふるい落とされた価値を見なければならない。大量生産は近代社会が要請した最適解に過ぎず、手をかければ更に大きな価値を創発することができる。また、これからの個別/多様社会が要請する人間像が後者であることは論を待たない。それを教えるのが運動会だろう。(有り体に言えば「答えのない問を解く」のだ)一つのある意味で抽象的なプロジェクトを企画/参加して、それに向かって構造的に考え、必要なことをこなしていく。先ほど述べた近代が払い落とした価値を拾い集める作業である。

また、同時にそのような活動に身を投じることで打ち捨てられた価値を見つけること(生み出すこととは違う)にも繋がる。そのような価値判断をすることが他の人の価値の創発を助けることにもなる。そのような活動のあり方を学べるのは運動会でしかありえないと思う。

 

利他の心を学ぶのは難しい。資本主義の中ではお金を稼げない人間はカスだからだ。しかし、マネーゲームを繰り返している人間は現存のフレームから出ることはできない。単純にこの世の中/社会/人類を良くしたいという心はであるからこそ、フレームを壊す可能性を秘めている。社会を前に進めるのは利他の心なのだ。

 

これからは世界は分節し、リアルは乖離し、真理は増加する。自然の国と荒野は近いところにある。人間は奴隷なるばかりだ。禅の心を持つことがそれに抗うことになる。それも運動会をやる意味になろうと思う。

文化祭の反省

 

紙にも書いた通り、文化祭の反省には3つの役割がありえます。

・係内の反省

・他の係に関係のある反省

・文化祭哲学

現状、文化祭の反省は殆どが係内の反省であり、係内の進捗を綴る場です。そんなものは引き継ぎに書けばいい話、と思いましたし、そんなものでカサ増しするのも癪だったのでこういう形をとりました。ここに書いてある内容は僕のいわゆる「文化祭哲学」です。文化祭について(開成について)書いたものです。ただ、こんな文章読まなくても良む暇があったら筋トレとかした方が有益です。悪文でごめんなさい。また、以下は経験と観察に基づいた私見です。

 

・誰がために文化祭はある

まず、僕が始めたことは「文化祭を何のためにやるのか」という問いに答えることでした。
客のために文化祭をやるのか、あるいは自分達が楽しいから文化祭をやるのか、とも細分化できます。というのも、客のためにやるのか、楽しいからやるのかでどのような喫茶を作るのかが変わってくるからです。

ぼくの現段階の意見は「全員が禅の心をもってやることが望ましいがそんなことができるわけがないので仕方なく客のためにやる」というものです。説明をしていきます。


ここで、「楽しませるを楽しむ」というコンセプトがありますが、これは罠と言わなければいけません。一見客と開成生にとっての文化祭を止揚したかのように見えますが、これは思考停止に他なりません。というのも「楽しませるを楽しむ」ことができるのは、(誤解を恐れずに言えば)フリーライダーだけだからです。少なくとも僕は、徹夜でマニュアルを作って楽しいとは思いませんし、それを楽しいと思う人は変態だと思います。つまり、文化祭当日のお客様の笑顔だけで今までの苦労が精算できるのは正にフリーライダーくらいのもの、ということです。参団の責任者をやっている友人を見てもそう思います。客か、開成生、優先順序くらいは決めなくてはまともな方針は立たないでしょう。僕は、客のために喫茶をやろうと決めました。

開成生のために文化祭をやるなら、論理は簡単です。自分の快楽を求めるために行動をする、ということにあまり疑問を挟む余地はないように思われます。実際、現状の文化祭はそうではないかと思います。

客のために文化祭をするならどうでしょうか。

客のための文化祭をするということは、辛い思いをして良いものを作るというふうに言い換えることができます。ただ、たかだか学生の文化祭にそんなaspirationは必要になりましょうか?だって文化祭で総務やろうがいいものをつくろうが結局は何も残りません。いい仲間(=やる気と能力のある)が出来るのは間違いないですがそんなものです。じゃあなぜこんなにコストを払ってまで文化祭を作るのでしょう。ひとまず総務がやることに限定して書きます。

 

・何でこんなコストを払って文化祭をやるの?

 

一つめには超人化がありましょう。超人化はニーチェの本に書いてある概念です。詳しくは読んでください。「ニヒリズムの徹底と内在的価値の創発」がポイントになります。ほとんどの人間は何者にもなることができません。学生が何か価値を創発しようかと考えた場合、近代的なフレームの中で戦うことしかできません。(極端な話。同じレベルの知性で脱近代的フレームを作れるチームを学生のみで作るのは非常に難しい) 近代的なフレームはスポーツや受験をイメージしてもらえると良いでしょう。個々人に対して異なる価値基準に基づいて正当に価値を評価するのは非常にコストのかかることです。マスに対してそのような方策をとるのは不可能です。よって「勝ち負け」のような二元論的な評価を現在の社会は採用しています。

試験は頭の良さや柔らかさ、記憶力の良し悪しなどの特徴量を点という基準で近似しているに過ぎません。よって演習量やテクニックが蔓延るわけです。しかし、文化祭は非常に個人的であり更に価値を評価してもらえる土壌があります。価値を生むのがどういことか、ということを身をもって経験できます。

最初に述べた禅はE2E(不立文字)な概念です。自分で調べて。

 

二つめは仲間です。なかなか陳腐なことに見えますが「問題が発見する→正当に問いを立てる→方策を見つける→戦略を立てる→期待値を最適化する→解決する」というプロセスは先述の通り、学生には厳しい(何なら大人もできない!)ものです。しかし、総務として志を持って応募してきた、その時点でやる気があることは明らかです。またそういう人が学年で集まってきているので、能力が高い人間が多いのもまた真実でしょう。(他の集合と比べたら濃度が高いというだけですが)そういう人と先ほど言った脱近代的フレームで戦える、あるいはさまざまなことついて議論ができる、というのは非常に貴重な機会でその為に開成に入ったとも言えるほど有り難いものです。

 

三つめは2つめとは逆で、ビジネスや社会と文化祭の逆を行くところで失敗できるということにあります。実際の社会を見れば分かるように彼らは失敗することを許されていません。大きいことはそれだけ不確定要素が多いので失敗する可能性が高くなります。「失敗したらカバーしてくれる」大人は本当に少ないです。なので大人になったらしばらくは新しいことをしたりするのは厳しくなるでしょう。(起業とかしたら別!)文化祭は先生方が暖かく見守って下さっている上、同級生の信頼関係で成立しているので多少の失敗も許されます。(もちろんきっちり仕事をやるのもすごい大事でそれの練習もできる)

一度このように自分で物事を考えて計画を実行に移して行く、更にそれが自分の裁量で達成することができるような経験をするのが大事になってくると考えます。

 

(さて、先程から「価値の創発」について述べましたが、価値についても話しておきましょう。

 

・価値って何?

月並みなことになってしまいますが、価値は一般からの差異に生まれます。

例えば、価格について(必ずしも価値とはイコールではないですが一致することが多いです)

需要・供給曲線を見ればわかりますが、需要が高まればあるいは供給が下がれば下がるほど、つまりそのもののレア度が上がれば上がるほど物の価値は上がっていきます。

また、例えば価値主義(お金2.0/佐藤 航陽 を参照してください)においてもまた自分の領域において他人に差異をつけられた人が何であれ評価されることが予見されています。(Youtuberやストリーマーについて)

エントロピーという概念があります。熱力学における分子の乱雑さを表す指標ですが情報についても適用できることが知られています。エントロピーは一般に減少することはないとされています。世界は乱雑は向かう一方です。だからこそ、世界を整列できる人間は(ある意味でエントロピーを減少させられる)それだけ価値があります。

一般との差異を考えるときには一定のフレームを作らないといけないです。

というのも、「一般」を人類(生物?)に設定すると不確定要素が多すぎて価値を規定することが不可能になります。例えば、お金はいらないと考えるミニマリストにとってお金を稼げることというのは全く役に立ちませんし、卑近な例でいえば「自分が幸福でよければ良いという考え方の人間には利他行動の価値を理解することはできません」

「真理」は存在しないという言明がありますが、それはすべてのフレームに対しての真理がないだけです。普段僕らはフレームに囚われているからこそこのような極端な言明が有効性(ある意味ジョークとして)を持ちますが、これを絶対的な事実として認めてしまえば、その人はナンセンスの銀杏並木を割れた王冠を被ったロバを担いで歩く羽目になります。

フレームに応じた真理を考察することが大切です。

話を文化祭に戻して、「文化祭」というフレームで価値があると目されるのは何でしょうか。そのゴール(=価値のフレーム)を自由に思考し、設定、達成ができるのが文化祭です。実はこの文は何も主張していないのですが、要するにそういうことです。自分で考えてください。)

 

あとは、リーダー経験です。些細なことですが。

リーダーにも顔慣れた人たちと動くものともっと大規模に動くものの2種類があります。

チーム運営をするなら、リーダーに構造的思考法が求められるのは疑問を挟む余地がないでしょう。全体で見てどんな仕事があるか、それをいつまでに達成するか、誰にどの仕事を任せれば一番良い結果を得られるか、(どういう仕事を任せれば成長できるか)を全部同時に考え抜く必要があります。

あるいは大規模組織運営をするなら、情報がいかに効率よく広がりさらに構成員が指示を再現できるかを考えて動かないといけません。

特にCは「総務」というくくりでチーム運営を、それ以外の総務も後輩と関わるうちに後者の運営の仕方を学ぶことができます。

1000人規模の団体で人を動かせるのはそうないことです。僕らは(少なくとも最初は)社会に出れば1/1000として働くことになります。

リーダーというものは先ほど述べた特徴から経験がないとできません。カリスマがないと群を動かすのは難しく、また使える人間を引き寄せる力、そして引き上げる力がないと、そしてそもそも実力がないとプロジェクトを遂行するのは厳しいです。経験がないとどうすればいいかは分かって来ないので、良い経験になりましょう。

 

文化祭に参加をしている人はなにも総務だけではないはずです。この学校に在籍している2100(1700)にとって文化祭はいかなる意味を持つのでしょうか。

まず一つ目はリーダーを簡単にできる枠組みがあるということです。

参加団体も、自分に企画力があって、仲間を集めるパワーさえあればいかなることもできる、というところに尽きます。これのことを考えれば、文化祭の意味は前に述べた意味に帰することができますね。

二つ目は普段所属していない団体で活動をすることができるということです。

僕らの学生人生は学校、部活、塾、家の反復運動にすぎません。

そんななか、一度部などの枠を払って価値を創発するできる文化祭は非常に貴重といえるでしょう。また、要求水準が滅茶苦茶低いことも参入のしやすさを助けています。

ぐちゃぐちゃなものを作っても完成さえしていればそれを3万人のお客さんに見ていただけ、終わった後には何か作った感を出すことができます。

(文化祭で試合をやるっていうのはどういう意味付けができそうですかね、成長した姿を親御さんに見ていただくとか?文化祭は文化(学校の特徴)を示す場だ、という反駁もできそうなものですが、普段からテストやら試合やらで近代的尺度に押し込まれまくっているのに文化祭でも普段と同じ人間と普段と同じことして何になるんだって感じですけれど。ていうか高校生の個性やら文化って(笑))

やりたいことができる(それもリスクを取らずに!)っていうのが一番大きいでしょう。

あとは、くだらないことですが、大きい組織での働き方が学べるかもしれないですね。

 

 つまりまとめると、「自分のやりたいことをそんなにリスクを取らずにできる」

ということが本質になります。

 

これまでは開成生のための文化祭という論点で論じてきましたが、客のための文化祭という論点で書いてみましょう。

この考え方に則れば文化祭は一つのエンターテインメント装置であると考えなければいけません。これは開成(や他の文化祭人気の学校)に訪れる人の多さとそれに担保されるべきクオリティーが要求したものです。

もともと文化祭はエンターテインメントでもなんでもなく、ただの学校発表の場でしたが前に述べたやりたいことをやってみる、企画から運営をすべてやってみるという考えに乗って文化祭を運営して行くうちに、次第に参加団体のエンターテインメント色が強くなってきました。(それがうちの良さ!)社会で行われている企画のほとんどは客の存在を前提としているのでそれの相似として、僕らの文化祭そうなっているのは当然といえば当然です。

もう一つは単純に来る人が異常に多いことも要因に挙げられましょう。ディズニーランドでポップコーン売ってなかったらヤバイですよね。

なので、沢山の人が来る施設として「機能」を提供するということも重要なファクターになります。

 

ではその像に基づけば文化祭はどうあるべきでしょうか。

実はこの問題はそこまで難しいことではなく単純にクオリティを(文化祭へのコミット度を上げる)ということに尽きます。

ただ、その過程で辛いことをしないといけない、というのも真実です。全員が全員やりたいことをやると実は物事が散逸しすぎて価値にはなりづらいのです。

(実はこれも最近変わって来てはいます、例えばVocaloidを用いて自分だけで楽曲を作る、あるいはplayanimakerなんか使えば自分だけで映画を取れたりもします。技術の進歩は物事の散逸を助けます、同時に価値の創発も。)

 

ここで、問題になるのは「楽しむを楽しむ」という精神論に陥らずに、本当に価値を創造すること(陳腐な言い方をすれば成長すること?)を敷衍する方法論です。

もうしわけないのですが、この文を書いている間にこの方法をこれとはっきりできていません。同時に、この方法論を見つけるに至っている思想家は過去存在しません。

かのニーチェですら「私たちはハエを払っている暇はない、そして祝福された人間のみに言葉を語るのだ」と断言していますし、その著書でもその断絶を謳っています。

 「なぜ走るのが早い人間と遅い人間が存在するのか、そしてどのようにすれば全ての人間の足が速くなるのか」という質問に答えるのがむずかしいのと同様に、「なぜ価値を創発すること、超人への意思を持つこと、自分の次元を上げていくことを指標とする人間が存在し、その間の奈落をどう超え、埋めるのか」という問いに答えれることは非常に難しいです。実をいうと近代のマスプロが実は一つの非常に解像度の低い回答になります。根性論がたたかれる昨今ではありますが、ある程度そのような性質を持っていないと(近代的でないと)物事の成功をつかめないというのは客と開成生の関係を考えればわかるでしょう。

頑張って考えて!

 

話は変わって、僕は喫茶Cなので、喫茶について考えます。

喫茶Cになりたての頃、文準委員長から「10カ年計画」の話をされました。その計画はこうです。

「まず文化祭準備委員会を「準備委員会」つまり、参団係、資材係、参画係、電気係、実演参団係の「準備」をする係のみを文準とし、残りの「企画」をして当日のみ人間を動かす(まさに喫茶!)を「文化祭企画委員会」として分離をするという計画でした。今後も似たような議論が出てくると思います(例えば〜係を潰そうとか、〜と〜を合併して合理化しようとか。)

 

これは「フレームを如何に変えるか」という議論に置き換えられます。小さな業務改善では変更しようのない大規模な変更を迫られた時にフレームそのものを弄るのは非常に有効な手段になります。フレームができてしまえば、フレームの運用をする人はそのフレームの作成者の意図に従わざるを得なくなります。二次元平面上に三次元の点は取れないですし、x.y平面上に複素数は表現できないです。フレームに従うのはここの業務改善とは比べられないレベルのコスト効率の良さで全ての振る舞いを一度に決定できるところにあります。

さて、フレームの作り方に「意図」というものがあると書きましたがこれを上手く設計するのが一番肝要です。

人間の振る舞いはある程度設計することができます。フレームを作るときに

なにか大規模な変更があるときにやたら構造改革と叫ぶのはそのためです。

 

具体的なレベルに話を戻したいです。文化祭の係編成を考えるときにどのような意図を仕込むのが正解でしょうか。様々に考える人があってその人なりの正しさがあると思うので、一応程度に僕の意見を述べておきます。

今まで書いて来た通り、僕は文化祭の「脱近代的フレームワーク下で自分のやりたいことを実行できる。それに過剰なほどの評価が来る」というところに魅力を感じてやっています。(喫茶Cをやったのも一番自由にできそうという理由であったりします)それに基づけば、喫茶や模擬店、縁日などのいわゆる企画係は解体していくべきだと思います。喫茶はコンセプトによって如何様にも変化していくものです。例えば、今年は「Alice in Wonderland」を基調とした第3ウェーブ系コンセプト学生喫茶というコンセプトでやりました(?)が、例えば和風喫茶や純喫茶など他のコンセプトも取れたはずです。たくさんの喫茶ができればそれだけたくさんのコンセプトが作成できます。多彩な喫茶巡りとか、楽しそうですよね。また、どうしても小規模な喫茶にならざるをえないのでそれだけコンセプトがシャープに映えます。オペレーションや装飾に一定の質が担保できるようなマニュアルの作成、進捗を管理する団体の設定などをクリアすれば数年以内にも実現できそうですよね。誰しも一年しか総務をやらないわけなので自分がやりたいなーと思った構想があったらすぐに実行すべきです。来年に回すーって言っても実現しません。実現したいなら自分がその計画の嚆矢になり、次につながりそうなことを残す、それくらいならやってもいいんじゃないかなと思います。一生に一回しかない文化祭やれること全部やらないと勿体無い。

古本喫茶について一応述べておきます。

 

文準はクオリティの高いものが提供できるという大きなメリットがある反面、文化祭にリスクを取らず、コミットせずに参加できる人が増えてしまうというデメリットを抱えています。

誰しも、自分でリスクを抱えずに参加してる感を出したいですし、また管理する側に回りたいものです。最近では、参団の数が減って文準に参加する人の人数が増えています。文化祭の縮小と叫ばれていますが、僕は制度自体が古くなったのだから構造改革なりカンフル剤なりを入れればまた10年くらいは戻るのではないかと思います。

 

【コラム】分散する社会

前提の共有をしておきたいと思います。近年、あちこちの知識人たちが「世界は多様化、分散している」と述べています。最近ノーベル賞を受賞したカズオ・イシグロさんがBrexitに際して投稿していた記事が思い出されます。

Kazuo Ishiguro on his fears for Britain after Brexit | Financial Times

一面ではこれは良いことです。自分が生きたいように生きられる、自分の嗜好のままに生活をしても社会が成立するのは多くの人が望んでいる社会ではないでしょうか。

しかし、一面では悪いこととも言えます。実際にツイッターで自分の中の世界を構築して生きている人間がいい例示になりそうです。戦後回帰の自分探し的左派と安倍叩きの右派、どちらも稚拙な二元論に回帰しています。また増えているインフルエンサーの信者。自分で自分の信条を構築できないない人間は自由な世界において安易なイデオロギーに回収されてしまいます。しかし、それで得をするのは教祖だけであり社会を前進させることはありません。そもそも、他人のために社会を前進させていく必要がないので非常に利己的な社会になります。その先に待っているのは母性のディストピア、あるいは伽藍堂です。どう社会を前進させながら個人の嗜好を突き詰めるか?これはこれからの課題になります。(ちなみにこの課題は文化祭の今の問題と相似形を為します!)

【コラム終わり】

 

また、構造改革について、もう一つ述べておくことがあるとすれば「目的→結果」という思考の流れを忘れてはいけないということです。先述の通り、世界が複雑化しすぎて考えることを辞めた人間は単純なイデオロギーに回帰するようになりました。同様に問題も複雑化すればするほど派閥を作り、仲間を増やし、問題を単純化矮小化して自分の意見を強行しようとする人が出がちです。結果ありきで小さいところをすり潰して自分の思う通りにするのです。そんなことは大人になってからいくらでもやればいいので、少なくとも総務という仲間内でやってる限りは、是々非々で演繹的に、一つずつ意見を調整してやるべきではないかと思います。総務になるような人間ですから、根気よく議論をする時間もあるでしょう。頑張ってほしいと思います。

 

この文章を簡単にまとめると

「文化祭は利他行動を学ぶ場。それをどう広めるかはこれから考えていくべき。構造改革をするならこれを軸にすれば良いのではないか」

というものです。

どれも、非常に難しい問題で、答えの出るようなものではありません。が、考えて、何かしらのレガシーを残せればいいんじゃないでしょうか。

ここまで読んでくれた人、あるいは最後だけ読んだ人、ありがとうございました。頑張ってください。