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下級生指導方針

下級生に対しての高3の意味はみんなが語り尽くしたと思うので、高3にとっての運動会の意味を語りたいと思います。

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最近、校長先生と話す機会を頂き、その中で校長が運動会について話されているのを聞いた。その中で校長が特に強調されていたのは、「運動会は教育装置である」という一点であった。私はこの言明に強く賛同したい。運動会がただの思い出づくりであって、教育的意義を見出すべきものではないとするならば、高校三年生のこんな時期にこんな労力をかけてやるべきではない。今すぐやめるべきだ。

運動会が教育装置であるとして、私たちがここでしか学べないことはなにか。一言で言えば、「社会勉強と社会でできないことの勉強」だろう。多くの場合学生が自分の行動に自分で責任を取って何かを為す、ということは少ない。例を出せば、僕らの戦うフィールドである勉強。多少知性は関わってくるものの、結局は規定のフレームワークの中で戦わざるを得ない。テストで点の取れない人間は結局カスで、評価に値するとはいえない。しかし、このような方法は一定の質の人間を大量に生産するものに他ならない。人間が社会の歯車を為す近代社会において、同質の歯車を沢山用意することは欠かせないことだ。しかし、我々はそれによってふるい落とされた価値を見なければならない。大量生産は近代社会が要請した最適解に過ぎず、手をかければ更に大きな価値を創発することができる。また、これからの個別/多様社会が要請する人間像が後者であることは論を待たない。それを教えるのが運動会だろう。(有り体に言えば「答えのない問を解く」のだ)一つのある意味で抽象的なプロジェクトを企画/参加して、それに向かって構造的に考え、必要なことをこなしていく。先ほど述べた近代が払い落とした価値を拾い集める作業である。

また、同時にそのような活動に身を投じることで打ち捨てられた価値を見つけること(生み出すこととは違う)にも繋がる。そのような価値判断をすることが他の人の価値の創発を助けることにもなる。そのような活動のあり方を学べるのは運動会でしかありえないと思う。

 

利他の心を学ぶのは難しい。資本主義の中ではお金を稼げない人間はカスだからだ。しかし、マネーゲームを繰り返している人間は現存のフレームから出ることはできない。単純にこの世の中/社会/人類を良くしたいという心はであるからこそ、フレームを壊す可能性を秘めている。社会を前に進めるのは利他の心なのだ。

 

これからは世界は分節し、リアルは乖離し、真理は増加する。自然の国と荒野は近いところにある。人間は奴隷なるばかりだ。禅の心を持つことがそれに抗うことになる。それも運動会をやる意味になろうと思う。